==ゴールドコースト オパールギャラリー==
オパールの名前の語源はローマ時代のオパロス"opalus "という言葉でこれはギリシャ語のオパリオス"opallios" 「色の変化を見ること」という言葉から派生しています。またこのギリシャ語"opallios"は古代インドのサンスクリット語「貴い石」を意味するウパラ"upala"に由来するものです。これらの語源から考慮して古代の人たちはオパールのことを"opallios upala"つまり「色の変化する貴い石」として評価したのでしょう。
古代ローマ時代、オパールは神の石であり、虹色に輝くことから希望を意味し、幸せを招く"キューピッド・ピデロス"「天使の石」と呼び、美の象徴としてダイアモンド以上に珍重していました。神様がキューピットの目で作ったと言い伝えられる「天使の石」オパールは、澄んだ瞳で物事を見て可能性と夢を見出す事がどんなに大切かを象徴する宝石だったのです。エジプトやバビロンでは光と水のお守り、そしてギリシャ時代には、未来を予知する宝石とされていました。
西暦23年生まれのローマの博物学者プリニウスは古代ギリシアよりローマに至る2千冊以上の書物より諸種の事項約2万件を抜書して集めた一種の百科事典的な書物「Historia Naturalis」(博物誌)全37巻を作成しました。北イタリアの名家に生まれた富豪にして軍人のプリニウスは若くして軍隊に入り、戦いの合間を見つけては多くの文献を紐解き、多くのものを実際に手にとっては、その特性などを書き留めていったのです。その最後の37巻「宝石」の中で昔から人間がいかに宝石に魅せられていたかを記述しています。
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プリニウスの書いた「宝石」の中に紀元前40年頃古代ローマ時代の記述でオパールに関する興味深い話があるので紹介します。
古代ローマの元老院議官のノニウスが所有していたオパロス(オパール)は、卵形をしたハシバミの葉(6cm-10cm)ほどの大きさで、当時のお金にして200万セステルティウス(当時の1枚7.8gの金貨1万枚分、普段着1着が10セステルティウスの時代)と評価されていました。このノニウスのオパールに目をつけたのがアントニウス(BC83-BC30)でした。プトレマイオス朝エジプト最後の女王クレオパトラ7世(BC69-BC30)(後にアントニウスと結婚)にプレゼントするためにノニウスに譲って欲しいと頼みますが、ノニウスはたとえ相手が誰であろうと譲る気はありませんでした。アントニウスは怒ってノニウスを追放します。しかしノニウスもさるもので、全財産の中からそのオパールの指輪だけを所持してローマを去ったと言うのです。
このオパールが何処から産出された物かはわかりませんが、プリニウスは"最も貴重な宝石のすばらしい諸性質を併せ持っていて、それは他のどの宝石よりも優れている。カーバンクルより柔らかい焔と、アメシストの紫色の輝き、エメラルドの海のような緑色が絶妙に調和していて、その新鮮な色はアルメニウムとして知られる絵の具に似ている。"と言って、賛辞を惜しみませんでした。このプリニウスが記述したノニウスのオパールが再び歴史の中で登場するのは、およそ二千年後の十八世紀半ばの事です。
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エジプトのアレクサンドリア付近の古代遺跡から、農夫が偶然宝石のついた指輪を発見。すぐにコンスタンティノープルに運ばれ宝石評価を査定したところ数千ダカットの価値があることが判明。その宝石はカボションカットのオパールで、ハシバミの大きさだった事から、これぞノニウスのオパールに違いないと色めきたちました。がしかし、このロマンあふれる想像はすぐに打ち砕かれる事になりました。というのも、オパールには水分が含まれていて、美しい遊色効果もその水分によるところが多く、二千年近くもその水分を保つことはまず不可能であったからです。
オパールには古代から「真実の精神が形体化した神聖なもの」 「稲妻の閃光で天国から落ちてきたもの」等多くの言い伝えがあり、 英国の美術学者ジョン・ラスキンは、「オパールの微妙な美しさと競えるのは、空の美しさだけだ」といっていますが、たしかに十月の夕焼け空にはオパールを連想させます。
オパールの美しさを見事な筆で伝えたものに、19世紀のイギリスの作家ウォルター・スコットの「ガイアスタイン」という小説があります。
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女主人公のハーマイアーが身につけていたオパールは、まるで炎のように赤く燃えるもので、それがハーマイアーの行動を通して生けるもののように巧に描かれています。ハーマイアーのヘア・スタイルは、赤褐色の髪の毛をプルーのリボンで束ねただけで、それを素敵なオパールのはめ込まれた止め金でまとめているのですが、そのオパールの虹色の変化がハーマイアーの一挙手一投足、あるいは心の動き、感情の抑揚などにつれて豊かな光彩を放つさまは圧巻です。
英国の文豪シェークスピアは、オパールを「宝石の女王」として誉めたたえ、「あなたの心はオパールそのもの」(『十二夜』)という名台詞を使って、女の移り気や変身をずばり表現しています。
後年,特に、オパールを"希望の星"として有名にしたのは、イギリスのビクトリア女王(1819〜1901)です。ビクトリア女王の母はドイツ人で最愛の夫・アルバート公も母方はドイツの王族でした。当時、ドイツの王族や貴族はオパールをことの他愛好し、ドイツを象徴する王冠にはオパールが飾られていました。母からも希望の星としてオパールの話を聞いたことのあるビクトリア女王は、オパールにひときわの愛着をしめしたといわれています。(一説にはイギリス領のオーストラリアから,オパールが産出していたためとも)女王の治世は、歴代のイギリスの歴史の中で最長というだけでなく、「立憲君主」としての偉大な業績を残しています。
そのような女王を温かく見守りながら,君主としての女王のとるべき姿勢をしていったのがアルバート公だといわれています。
当時,イギリスの政界には根強いドイツに対する不信感や警戒心が充満していましたから、アルバート公には決して居心地のよいイギリスではなかったはずです。
彼に「プリンス・コンソート」(女王の夫君)の称号が与えられたのは、結婚後17年もたってからのことですが、アルバート公の、自分を殺して女王の個人秘書になりきる愛の深さは誰よりも女王自身が感受していたといわれています。
女王はそのアルバート公との間に4人の往事と5人の王女に恵まれましたが,何れもヨーロッパの各王室と縁組。まさに彼女はヨーロッパの王室の「女ドン」になったのです。
5人の王女が嫁ぐとき女王は、いずれも「自分のように幸せな結婚生活に恵まれるように』と希望を託してすばらしいオパールをそれぞれに贈ったと言われています。
1901年。ビクトリア女王は、オパールの王冠を受け継いだ孫のドイツ皇帝ビルヘルム二世にみとられて、希望に満ちた幸福な一生を閉じたのでした。
参考文献:日本法令 宝石 山中 茉莉著より抜粋
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